一昨年橋梁として重要文化財の第一号に指定され、今年平成十三年四月三日には九十回目の誕生日を迎えました。
その上には都電が通り、真中に日本国の道路元標が立っていましたが、昭和三十九年東京オリンピックのために作られた高速道路により無残にも取り払われ、空を覆われてしまいました。何時の日か高速道路を日本橋の上から取り除こう、というのが我々地元の人々の切なる願いです。
橋と並んでもう一つの名所は白木屋でした。京都から初代大村氏が下ってきて呉服商を開いて以来、三百三十七年の繁栄を誇ってきた東急百貨店日本橋店も、一昨年一月に店を閉じてしまいました。白木屋というとどなたにも関心のある出来事は、白木屋の火事です。女店員が下着を気にして恥ずかしさに焼死し、それ以来女性がズロースをはくようになったという事件は昭和七年のことで、私など知りませんでした。
私が店を開きました二十一年当時、白木屋の半分には進駐軍のPXがあり、ソニーも東通工という名前で入っておりました。その後、横井英樹の株式の買収による会社の乗っ取りを経て、五島慶太の買収により白木屋が東急百貨店日本橋店となったのは昭和三十二年のことでした。
株式といえば昭和二十一年にはまだ証券取引所が再開されておらず、中小の証券会社の社長、株屋さん達は日証館あたりで相対の証券取引や、闇物資の取引をしていました。また早くも昭和二十年十月から始まった宝くじを販売し日銭を稼いでおりました。それが平成になってバブル崩壊による金融界の危機により、山一証券・三洋証券の相次ぐ倒産、北海道拓殖銀行の整理合弁から、健全といわれた安田信託銀行さえ一時危ないということで、永代通りに「倒産通り」というありがたくないニックネームをいただきました。そして兜町の街にとどめをさしたのが、取引所に場立がなくなり取引がコンピュータ化してしまったことです。