tempura@benkei.jp
(C) BENKEI Co.,Ltd.
All Rights Reserved.

< No1 > 「日本橋いまむかし」より抜粋  釈迦牟尼会 発行
今城 英男 著

 日本橋は四百年前に徳川家康が江戸開府して以来開けた所です。
「芝で生まれて神田で育つ」が江戸っ子とされていますが、徳川幕府が埋め立てによって江戸の下町を作る以前は地形からいって芝、神田、上野が江戸の最先端であったので、日本橋は入っていなかったのではないでしょうか。
 

 江戸で日に千両の金が落ちるといわれたところが日本橋に三つありました。川柳にいう
「日に三箱 鼻の上下へその下」がそれで、箱というのは千両箱、鼻の上とは目のことで芝居小屋、下というのは口のことで日本橋畔の魚河岸、へその下とは人形町にあった吉原遊廓でした。

 その日本橋から一分とかからない現在のところに私が天ぷら「弁慶」を開店したのは、終戦後の新円切り換えで日々の生活費に苦しくなり、現金商売をしようと始めたのです。というのもこの横町は「木原店」(きわらだな)といって明治、大正、昭和の初期まで、「食傷新道」として栄えたところで、夏目漱石の「こころ」や志賀直哉の「暗夜行路」に主人公が食事に寄ったことが書いてあります。

 魚河岸の他、証券取引所、日本銀行をはじめ財閥銀行の本支店、百貨店の三越、白木屋や老舗の商店が軒を並べ、日夜人通りの絶えない所でした。
昭和二十一年当時の正式な番地は、日本橋区通一丁目七番地でした。間もなく二十二年三月から中央区日本橋通一丁目七番地となりましたが、それまでは「通り」というのが町名でした。後に住居表示とかで日本橋一丁目五番八号となった時、古老は「通り」の町名が消えたことを怒っておりました。

 さて戦後、日本橋の景観を変えた第一は水でした。そもそも日本橋に商業が栄えたのは、船運があったからです。上方からの諸物資、関東平野の物産が江戸に集まってきたのは船によるものでした。隅田川、日本橋川、その支流の掘割川を通って物資が問屋、商店に運ばれてきたのです。

蚊帳、敷物が西川や伴傳といった店に、酒や醤油が日本橋の国分や新川の酒問屋に、米や砂糖が日本橋畔の榮太樓に、繊維類が堀留や横山町の問屋に船で運ばれてきましたが、それら支流のほとんどが埋め立てられ、道路や首都高速道路となってしまいました。
一石橋、西河岸橋、日本橋、江戸橋を除いた「八重洲橋」「呉服橋」「兜橋」「海運橋」「千代田橋」はなくなってしまいました。

 景観の変化の第二は、都電が廃止になったことです。昭和四十四年から四十七年にかけてと思いますが、路面電車と軌道、安全地帯がなくなり景観が大きく変わりました。交通の不便さは下町に住む人たちの足を奪ったようなものです。日本橋交差点を通る都電は七本ありました。南北に走るものとして「品川駅前---上野駅前」「通三丁目---王子駅前」「新橋---南千住」「銀座七丁目---神明町車庫前」 東西に通るものとして「高田馬場---茅場町」「都庁前---錦糸町駅」「日本橋---錦糸堀車庫前」がそれです。